こんにちは。今日もおうちが恋しいこかです。
最近、祖母を亡くしました。
死と直面したことで、「生きる」ということについて考えさせられました。
愛する人を失ったことは悲しくて、ツライことです。
突然の死だったのでショックが大きかったのですが、ご住職から「これから長い旅に出られます」と言って死後の世界のお話を聞いているとふと思ったことがあって。
生きるってどういうことでしょう。
呼吸をして、生存していることが生きるということでしょうか。
しかし、脳が死んでいたり、心が死んでいたり、生存していても「生きている」とみなされないパターンもあります。
一方、生存していなくても、誰かの心の中で生き続けることもあります。
「生きる」ってどんな状態を指すのかなと不思議になりました。
状態を問わず、どこかに存在していること
生きるとは、状態を問わず、どこかに存在していることを指すのではないかと(一旦)結論づけました。
愛する人がなくなったとしても、遺族の記憶や心の中では生き続けているはずです。
わたしも祖母と同じような背格好のおばあちゃんを見ると、「え!おばあちゃん…?!」と思ってしまいます。
現実に気づいた瞬間ツライのですが、わたしの心の中で祖母はまだ生きているんです。
もう会うことはできないけれど、わたしの中に祖母は存在しています。
祖母がわたしの中で存在している限り、まだ生きているのだなと思いました。
喪失感が減った
通夜、告別式の前、実は気乗りしませんでした。
「参列したくないな…」と思っていました。
祖母の死を受け入れられなかったのでしょう。
でも、参列したあとは「参列してよかった」と感じていました。
気持ちの整理がついたこともありますが、「生きる」ことについて考えを巡らせることができたからです。
生について考えることで、喪失感に任せて悲しむことが減りました。
この世に存在していることだけが「生」ではないのだなと考えるようになり、気持ちが落ち着いてきました。
祖母は新しい生を歩み始めたのだと思っています。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
一人でも多くの繊細さんが生きやすくなりますように。
コメント
コメント一覧 (2件)
こかさん、こんにちは。
叶エイジャ(Twitterの)です。
お祖母様のこと、お悔やみ申し上げます。
お疲れありませんか? 皆様、短い期間に大変だったと思います。
こかさんは、お強いですね。
(この表現で良いのか迷いますが)
私は、こうした事にあれこれ考えてしまい、文が引きずられすぎてしまうので、今回のブログのような文は書けない気がします。(文を書く行為そのものができない、というニュアンスがより強い、です)
生きること、については、個人的にも色々考えていることあるのですが、うまくまとめられなかったので、これにて失礼致します。
叶さん
こんにちは。
ありがとうございます。葬儀がバタバタと過ぎ、ようやく日常が戻ってきました。
>私は、こうした事にあれこれ考えてしまい、文が引きずられすぎてしまうので、今回のブログのような文は書けない気がします。
わたしは全然強くないですよ〜(×ω×)
葬儀のときのご住職のお話のおかげで、心が軽くなったというか、気持ちの整理がついたというか。
自分一人ではなかなか消化しきれませんでした。
死に直面して思うことは、「健康で毎日暮らしている」って本当に素晴らしいということです。
ツライとき、逃げたいときもいっぱいありますが、一生懸命生きようと決意させられました。
また、ブログに遊びにきてください。いつでもお待ちしております。